自ら弓を取り連射する からくり人形の最高峰 『弓曳童子』 のからくり
 
 
からくり人形の最高峰「弓曳童子」

江戸のからくり人形・弓曳童子
胴体部に全て格納されているカム部分
 
■ 全ての動きを制御する7枚の「カム板」 。


「弓曳童子」は、ゼンマイと歯車、カムとカム板の組み合わせだけで全ての動作を制御しています。
カム板はカムの動きを受け止め、糸へとつなげる大事な役目を担う部品です。
7枚のカムとカム板それぞれの役割の連動によって、当時の2/3というスケールでありながら、「弓曳童子」の持ち味である豊かな表情となめらかな動きを再現することができました。
まさに精緻なる技巧と卓越したアイディアによって作られた逸品です。


からくり人形-弓曳童子のカム
7枚で構成されるカムとカム板の全体図。それぞれのカムに「弓が付いた左腕を伸ばす」、「右腕を上げ下げする」などの動作が割りあてられ、連動する事で一連の動きになる。

「からくり儀右衛門」江戸時代末期を代表する科学技術者 
■ 江戸からくりの最高峰・弓曳童子の製作者「田中久重」

 さて、「弓曳童子」の産みの親である江戸末期の科学技術者・田中久重は一体どんな人物であったのか、ここにご紹介いたします。

 田中久重は、江戸時代末期に筑後国のべっこう細工を家業とする家の長男として生まれた。べっこう細工は、そのほとんどに金属細工がほどこしてあり、べっこう細工職人=金属細工にも長けた職人でもあった。後の精密機械の製作にも通じる金属細工の技術に、久重が幼い頃から接することができた点が、少なからず彼の進む道に影響を与えたようだ。
 久重の子どもの頃のエピソードとして、硯箱に容易に開かない鍵を細工したという話が伝えられている。既にこの頃から、後に彼が「からくり儀右衛門」と呼ばれる資質を表していたのではないだろうか。

 久重と「からくり人形」との出会いは、自宅近くの五穀神社の例祭だったと言われている。からくりの仕組みに魅せられた久重は、自らのからくりを考案・作成し、いつしかそのことが町人に知られるようになった。彼が「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになったのはこの頃からのようだ。
 久重が生まれた頃には細川半蔵の『機巧図彙』*といったからくりの教科書とも呼べる書が既に出版されていた。また庶民の娯楽として、からくり興行師が町々を渡り歩いている時期でもある。このような日本独自のからくり人形に触れる機会が多い時代に久重が育ったことも、彼が後に「弓曳童子」などの高度なからくり人形を産み出すきっかけの1つとなったのだろう。

 からくり人形の虜となった久重は、本来長男として継ぐべき家業のべっこう細工から遠のいてしまい、家業は久重の弟が継ぐことになった。家業を弟に任せた久重は、技術修行のため筑後を去り、からくり人形の技術の他、無尽灯や万年時計、後の蒸気船の開発にも関連する気砲といった技術を身に付けることとなった。晩年の久重は、日本初の蒸気船などの数々の開発に携わり、明治期に入ると、現在の「東芝」の前身となる田中製造所を設立した。

 からくり人形に魅せられた「からくり儀右衛門」は、からくりの技術を追求するにつれ、様々な興味惹かれる技術と出会うことになった。その結果、元来の探究心に豊富な技術力が加わり、からくり師としての才のみならず、日本の近代科学技術の発展に大きく貢献した人物になったと言えるのではないだろうか。

参考文献:「からくり儀右衛門〜東芝創立者田中久重とその時代〜」(ダイヤモンド社)


現代のからくり師-九代目 玉屋庄兵衛  
■本作の監修 現代のからくり師 「九代目 玉屋庄兵衛」

 
 江戸時代の職人の技を今に伝える現代のからくり師が、今作の監修者でもある九代目 玉屋庄兵衛氏だ。
 田中久重作の「弓曳童子」は、動力に真鍮製のぜんまいを用い、人形の動きは数枚のカムに連動する糸によって巧みに制御されているとても複雑なもの。この機巧をそのまま使うと、一般の方には作成が困難な高レベル高価格のキットになってしまう。誰もが組み立てられる範囲で再現するために、学研はからくり人形を知り尽くしている九代目 玉屋庄兵衛氏に監修を依頼した。
 本物のもつ複雑な機巧や動きを残しつつ簡単な機構や調整にするには、単に素材を代えたり簡略化するだけでは再現できない。現存するからくり人形の修理や新作の開発に常に携わる玉屋庄兵衛氏の技術が、現代にからくり人形の素晴らしさを伝えていると言える。

<< 弓曳童子トップへ

  
▲ TOP ▲



いくつかの商品を複数注文しても送料は1個分です。ただし、たくさんの場合は重量によって多少送料が上がる場合もありますのでご了承ください。

▲癒し系雑貨へ

▲デジモバTOPへ